海山神社は昭和13年(西暦1938年)5月13日に竣工した。当時は日治時代の末期にあたり、盧溝橋事件の直後で日本が戦時体制に入り、台湾における宗教統治が頂点に達していた。台湾では皇民化運動が積極的に推進され、戦争協力・時局対応のため全島が動員された。そこで台湾人に対し神社参拝を強制し、さらに「一街庄一神社」の方針を採用して、あらゆる面で台湾の支配を強化した。海山神社の建立も、当時の台湾統治政策と関係があると推察される。神社は日本政府の思想教育・植民教化の場として機能し、台湾の在地の宮廟・寺院と文化的に強い対比をなした。海山神社には現在も石垣、石段、三番目の鳥居の基礎、石段の補強壁、民国29年に建造された防空壕が残存している。石垣は士林硬石、石段はモルタル仕上げで、防空壕の前部はコンクリートに改修されているが、後部は当初の構造を留めている。史跡本体は海山神社遺跡、海山神社下方の防空壕、および員山公園内の積穗配水池を含む。