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西島東台

2025-09-23
886-6-9216521
1885年日清戦争が終結した後、 福建総督・楊昌駿と台湾巡撫・劉銘伝は、ともに澎湖を視察し、「当島は福建と台湾の要衝であるのみならず、孤立した危険な場所である。強大な大砲を備え、訓練された兵隊を配置し、十分な防備を整える必要がある。」と主張した。彼らは繰り返し澎湖の海軍力を強化する必要性を訴え、マゴンを拠点とする要塞の建設を提案した。清朝は彼らの意見を採用し、呉鴻祿を澎湖の初代司令官に任命した。呉鴻祿が澎湖に到着すると、まっさきにマゴン市を建設し、西式アムスリング後装式砲台4基を新設した。それは、大城北砲台、錦貴頭砲台、西方島東砲台、西方島西砲台の4つである。光緒21年(1895年)、日清戦争が澎湖を舞台に繰り広げられた際、日本軍は澎湖の主島である湖西の龍門に上陸し、西進してマゴン市を目指した。西方島の東砲台に駐屯する守備隊が日本軍と交戦し、現在も記録が残っている。太平洋戦争の際、米軍はフィリピンを攻略ののち、台湾と澎湖を飛ばして沖縄に直接攻撃を仕掛けるという跳島戦術を採用した。したがって、澎湖島の各砲台は太平洋戦争の最中、米軍の艦隊による直接的な砲撃を受けることはなかったので、島の防備はきわめて良好な状態で現在まで保存されている。西方島の東砲台は、1991年11月23日(中華民国80年)、内政部により国定古跡に指定された。 (出典:国家文化遺産データベースより) 所要時間の目安:2時間。
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