白沙郷の呉霊宮は、宝生大帝と呼ばれ、また大権現、武真君とも呼ばれ、字は華斎、号は雲東である。もともと福建省泉州府同安県明生郷白沙郷白沙村(現在の漳州市龍海区江梅鎮)に住んでいた。幼少の頃から非常に賢く、自然と道教の気質を持っており、成長するにつれて、天文学、地理学、礼楽の書に精通し、特に医術に優れており、その評判は次第に人々の間に広まった。
白沙郷の呉霊宮は、400年以上前に建てられ、屏東の宝生大帝信仰の起源である。宝生大帝は壮大で、その神力は広大であり、香と火は伝統的に恵渓郷の南寮村に受け継がれ、現在も信仰が強いままである。香は芳しく、呉霊宮は侯寮一帯の守護神である。
呉霊宮はもともと1602年(明朝万暦30年)に建てられ、数多くの改修と修理を経てきたが、特に中華民国が成立した後、地方の有志や村の長老たちが再建を提案し、1932年に再建された。63年が経過した後、1954年に火事で再建され、1956年に再建が完了した。宮殿は壮大で、豪華で、威厳があり、庭の隅々に再建の記録が残っている。
呉霊宮の近くには、台湾最大の石碑があり、高さは約200cmで、1842年(清朝道光皇帝22年)に建てられた。この石碑は、1841年の秋冬の頃、侯寮と通連の間の地域が「風穴口」と呼ばれ、山の精霊や幽霊がいたるところをさまよっており、村民たちは耐えられず、宝生大帝に導きを求めて香を供え、祈った。宝生大帝の導きに従い、「起、彌、王、梁」という四文字の石碑(雨のシンボルが上にある)を建てて、邪悪な霊を払いのけ、村を守った。それ以来、本当に姿を消して、今日まで妨げられていない。
石碑はもともと「天沙」の場所にあり、後に呉霊宮の左側に移され、寺院の修理に伴って何度も移された。2008年と2009年には、基礎の3層を修理し、石の敷居を敷き、鹿や鶴の吉祥のイメージを彫り、麒麟のペアや保護フェンスを追加した。
「起、彌、王、梁」という四文字の石碑(雨のシンボルが上にある)は、100年以上の歴史を持つものであり、台湾の石碑の中では最大の大きさを誇る。「石の守護神」は、島の住民によって開発された独自の宗教的シンボルである。
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