中和地区はもともと先住民族の居住地であり、乾隆6年(1741)に福建・広東出身の漢人が渡台開墾して初めて漢人村落の記録が現れた。明治28年(1895)に日本が台湾を統治すると、水質改善および海山地区の「山本炭鉱」での洗炭・製錬の需要から、昭和3年(1928)に板橋水道の建設が着手され、翌年に給水を開始した。瑞穂配水池は昭和4年(1929)に創建された瑞穂浄水池(現在の瑞穂配水池)で、瑞穂高地に築かれ送水・配水の分岐点として機能した。その後、板橋駅の建設に伴い地域は急速に発展し人口が急増したため、日本当局は昭和16年(1941)に板橋水道の拡張を計画したが、太平洋戦争の勃発で中止となった。戦後、水道系統は戦災で供水量が激減し、政府は修繕・拡張を計画した。過程で日本統治初期の水道施設は改築により姿を消し、民国52年(1963)に新店渓水を取水し、民国63年(1974)には大漢渓の地表水に切り替えて板橋地区の水道システムが完成し、地下水は完全に供給から撤退した。日本時代の遺構は瑞穂配水池が最も完全に保存されている。配水池は日治時代から給水機能を発揮し、現在の永和水源路の取水口が水源で、両地域の発展を結びつけ、近代水道発展において重要な遺構である。