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龍山寺

2020-09-17
台北市萬華區廣州街211號
艋舺(現在の萬華)は、台北市の発祥地であり、その最古い町は、紗帽厨社の跡地である大渓口、現在の貴陽街と環河南路の交差点に位置する。清の康熙48年(西暦1709年)、陳賴章が大佳臘の開拓を請け、福建泉州の晋江、南安、恵安の三邑の人々が海を渡ってやっと集落を形成した。当時、平埔族の人々は、淡水河上流でトウモロコシなどを運搬し、漢人と交易していたため「蕃薯市」と呼ばれていた。而独木舟は、平埔族の言語で「Banka」と発音され、漢人によって「艋舺」と音訳された。 当時、台湾北部は未開地で、瘴気が発生し、危険な地域だった。漢人が入植する際には、故郷の寺の香火を携えて神の加護を祈り、後に三邑の人々が共同で乾隆3年(1738年)に龍山寺を建立し、福建省晋江県安海龍山寺の観世音菩薩を迎えた。龍山寺は住民の信仰の中心で、議事や訴訟なども神の裁定を求めた。光緒10年(1884年)の日清戦争では、フランス軍が基隆の獅球嶺を占領した際、地元住民が義軍を組織し、龍山寺の印を用いて官庁を支援し、フランス軍を退けた。これにより、光緒帝から「慈暉遠蔭」の扁額を賜った。 龍山寺は創建当時から規模が大きく、彫刻が精巧で、嘉慶20年(1815年)の地震後再建され、同治6年(1867年)の暴風雨で再度修築された。民国8年(1919年)、住持の福智大師が修復費用として7千余元を寄付し、現在の規模が確立された。民国34年(1945年)には太平洋戦争中の空襲で中殿が全壊したが、観世音菩薩の像は無事で、住民が避難所として使用していた蓮台下に避難するも、前夜に虫害のため避難者が帰宅し、被害者はいなかった。これを住民は観世音菩薩の加護と信じ、精神的な支柱となった。 龍山寺は南北方向に建てられ、「回」字型を呈し、中国古典の三進四合院様式の宮殿建築で、前殿、正殿、後殿、左右の護龍からなる。前殿は11間で、三川殿、龍門庁、虎門庁に分かれる。三川殿前の銅製の龍柱は台湾唯一の存在で、正面の壁は花崗岩と青斗石の混合構造で、三国志や封神演義の故事が描かれ、教育的意味が込められている。正殿の屋根は重檐錠り式で、42本の柱子が支え、外壁には有名書法家の石刻が多く、内部の螺旋藻井は釘や鉄を使用せず、斗栱の組み合わせで構成されている。後殿の屋根も重檐錠り式で、儒教や道教の諸神を祀る場所である。左右の護龍には鐘楼と鼓楼があり、朝の鐘と夜の鼓が響くその屋根は六角形で、形が独特である。全寺の屋根の脊や飛檐は龍や鳳凰、麒麟などの吉祥物が飾られ、剪黏や交趾陶で装飾され、色彩が鮮やかで、台湾の剪黏芸術の精華とされる。 民国74年(1985年)に政府が艋舺龍山寺を二級古蹟に指定し、国立故宮博物院、中正記念堂と並び台湾の三大観光地となった。龍山寺は板橋の文化路に文化広場ビルを建立し、民国94年(2005年)に完成後、各種のコースや講座を主催し、仏法の普及や社会教育の文化的価値を高めた。艋舺龍山寺では毎年、旧暦正月の花灯会、4月の浴佛会、7月の盂蘭盆会などが開催され、住民や観光客が寺院建築の美しさと伝統的な民俗文化を体験することができる。
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